「生きた宝石」、「泳ぐ芸術品」とも呼ばれる錦鯉は、いまから200年ほど前の1804~1830年(文化・文政期)に、新潟県小千谷市から長岡市山古志にまたがる二十村郷と呼ばれる山間部で生み出されました。二十村郷の人びとは、古くから食用鯉(真鯉)の養殖を水田で行ってきました。その真鯉のなかから、突然変異で赤やまだらなどの色付きの鯉が生まれたのが錦鯉の始まりとされています。そのなかから優秀な色と模様をもつ鯉を選び出し、さらに数百年もの歳月をかけて改良を繰り返すことで、いまの錦鯉が生み出されました。
明治時代初頭(1870年代)には、新潟の地方新聞や県の文書に錦鯉関係の記事がたくさん登場することから、この時期、新潟において錦鯉文化が盛んになっていたことが理解できます。1889年(明治22)になると、現在の小千谷市蘭木の広井國蔵という人物が、錦鯉の代表とも言える「紅白」と呼ばれる品種を作り出しました。これが近代的な錦鯉の始まりであり、その後、「大正三色」や「昭和三色」など数多くの品種が作り出されました。そのほとんどが、新潟で生み出されたのです。
さて、このように新潟の人びとの努力によって生み出された地方の観賞魚は、その後、日本全国、そして世界へと広がっていくことになります。錦鯉文化の大きな発展のきっかけとなったのが、1914年(大正3)に東京の上野公園で開催された東京大正博覧会です。そこに二十村郷の人びとは、優秀な鯉23尾を出品しました。そこで、新潟の錦鯉は高く評価され、さらにそこを訪れた皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)に、とても気に入られたと語られています。これを契機に、新潟の錦鯉は、日本各地に広まりました。さらに、この頃、錦鯉の海外輸出も開始されました。1939年(昭和14)には、アメリカのサンフランシスコで開催された金門万国博覧会(Golden Gate International Exposition)に、日米親善のため新潟の錦鯉生産者たちから300尾の錦鯉が出品されました。
1960年代、日本は経済的に大きく成長し、国民の経済力が高まりました。そういったなか、日本は錦鯉ブームに沸き立ち、錦鯉を趣味とする多くの愛好家たちが誕生しました。そして、錦鯉の鑑賞や生産が新潟から全国へと爆発的に広まりました。1968年(昭和43)には、東京赤坂のホテル・ニューオータニにおいて第1回全日本総合錦鯉品評会が開催され、翌年に生産者、流通業者の組織である全日本錦鯉振興会が誕生したのです。
この第1回全日本総合錦鯉品評会を記念して、『国魚』と題する大会記念誌が刊行されました。この国魚という尊称は、小千谷市で錦鯉問屋を営み、錦鯉生産団体の全国的な組織化に尽力した宮日出雄氏が命名したものです。「国魚」という尊称は、以後、錦鯉の世界チャンピオンを決める全日本総合錦鯉品評会の「国魚賞」という褒賞に使われるほか、全日本錦鯉振興会の会員章のシンボルともされています。
新潟で生まれ、日本の国魚となった錦鯉は、いまや海外の多くの人びとにも愛される「世界の観賞魚」となりました。いまではコイKoiという言葉が、錦鯉の呼称として世界各地で通用するまでになっており、アメリカやイギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、そしてインドネシア、タイ、シンガポールなど多くの国々でKoiという名称で錦鯉が呼ばれています。200年ほど前に新潟で生まれた錦鯉は、日本の美を象徴するものとして日本人に愛されるとともに、いまでは世界を代表する観賞魚となっているのです。
(東京大学教授 菅豊)